「この音……」
帰り際、昇降口で靴を履き替えていると。
どこからか、音が聞こえてきた。
――それは、ボールを打つ音。
鞄についていた、キーホルダー型の時計に目をやる。
時刻はもうすぐ夜の8時……
こんな時間に学校に居るのは、先生方くらいだ。
……だが、
先生がこんな時間にボールを打っているわけではないだろう。
実際に見たわけでもないのに、なぜかそんな自信があった。
「…………」
靴を履き替えたあたしは、
迷わずそのボールの音がする方へ向かった。
「…………やっぱり」
やはり、あの音はテニスボールだった。
テニスコートにやって来たあたしは、ボールを打っていた人を見て
思った通りだ、と、心の中でつぶやいた。
辺りを見回しても他には誰も居ないから、
どうやら、一人で残り、自主練をしていたようだ。
――確か、明日も朝練があるのではなかったか。
クラスメイトの副部長が、そんなことを言っていた気がする。
「そろそろやめたら?
やりすぎは、体に良くないよ」
少しだけ声を張り上げ、そう言った。
すると、その人も声に気付いたようで、壁打ちを中断する。
「もうとっくに下校時間は過ぎてるよ」
「…………」
あたしの言葉を受け、その人は外にあった時計に目をやった。
そうして再びこちらを見る。
「…………夢中になっていたようだ」
「みたいだね」
近くに置いてあったタオルで汗を拭きながら、
「だが、」と続ける。
「お前こそ、こんなに遅くまで何をしていた」
下校時間のことは、お前にも言えることだ。
――こっちが注意していたはずなのに、
いつの間にか注意される側になってしまっている。
まずい、とも思ったが、
事実なので言い訳する余地も無くなっていて。
「ええと……あたしも、読書に夢中になっていました」
図書室に並ぶ本棚の、一番奥の場所。
そこで本を読むことが、あたしの日課だった。
今日も例に漏れず本を読んでいたわけだが……
そこが入り口からは死角になっているためか、
先生にも気付かれず、今まで没頭してしまっていたのだ。
「人のことは言えんな」
「……!」
そっちこそ、と、言い返そうとしたのに。
口調とは裏腹に、その顔はかすかな笑みを含んでいて。
初めて見たその顔に戸惑い、何も言い返すことが出来なかった。
「少し待っていてくれ。すぐに着替えて荷物をまとめてくる」
「え、……」
なんで、と、聞くと。
こんな時間に一人で帰る気か、と言われてしまい。
「送るから、そこで待っていてくれ」
そう言って、さっさと部室に行ってしまった。
「……一緒に帰るだなんて、初めてだな」
そんなことを考えているうちに、すぐに戻ってきて。
「待たせたな、では帰ろう」
一緒に、歩き出した。
「いつもこんなに遅くまで?」
「いや……そんなことはない」
どうやら、今日はたまたまみたいだ。
「少しだけ自主練していくつもりだったんだが……」
さっきも言った通り、夢中になってしまったんだ。
少し罰が悪そうに、答えた。
「そっか……」
あたしも、今日はたまたま。
こんなに遅くまで残っているなんてこと、いつもは無いのに。
「……だが、いつも下校時間ぎりぎりまで残っているだろう?」
「え、」
なんで、そんなこと知ってるの?
「テニス部のコートから校舎を見ると、
ちょうど図書館に当たる場所が見える」
7時手前になると戸締りをする姿を、よく見かけるんだ。
「あ、なるほど……」
戸締りの確認をしようと、窓際に行ったとき……
姿を見られていたようだ。
「本が好きなのは解るが、あまり遅いのは感心しないな」
「うん……
あたしも、早く帰らなきゃとは思うんだけど」
でも、ただ単に本を読むことというより……
あたしは、あの場所で本を読むことが好きなんだと思う。
「だから、時間も忘れて夢中になるんだと思うんだ」
でも確かに、お母さんからはもっと早く帰ってきなさい、と、
言われているんだよね。
「気をつけるようにしないと」
「そうだな」
お互いにな、と、またかすかに笑ってそう言った。
――それから他愛もない話をしながら歩いていると、
思ったより早く家に着いた。
「あたしの家、ここなの。
送ってくれてありがとう」
「ああ」
では、またな、と言って歩き出す。
「あ、あの!」
歩き出したその背中に向かって、あたしは思わず声を掛けた。
「どうした?」
「あ、あの……
大会……がんばって、ね」
気の利いたことなんて、言えなかったけれど。
「……ありがとう。俺たちは必ず勝つ」
だけど、真っすぐあたしを見て答えてくれて。
その綺麗な瞳に、揺るぎない信念を垣間見た気がした。
105.曇りなき瞳で
(君はその一点だけを見据えている)