『…………』
虎に姿を変えたとき、
始めの方はちゃんと「人」の意識がある。
だが、長時間その姿でいると「人」の意識は薄まり、
自我も保てなくなる。
『…………』
純粋な「虎」としての意識が強くなり、
「人」としての意識は奥深くに沈んでいく。
そう、例えるならば――……
深く暗い、海の底にいるような……
そんな心地だった。
「アッシュ〜、お邪魔してるよ!」
「ああ、来てたのか」
食堂に入ると、船の住人たちと話し込むの姿があった。
「買い出し行く途中で寄ってみたら、
皆さんも買ってきてほしいものがあるって言うからさ」
今メモしてたとこなんだ、と、
紙の切れ端を見せながら言った。
「アッシュも一緒に行く?
ずっと船に籠ってても、良くないと思うんだけど」
「俺は別に……」
うっかり鏡でも見ちまったら面倒だし……
「…………いや待て、そのメモちょっと見せてみろ」
「うん? はい、どーぞ」
食料に洗剤、その他の生活雑貨……
……やっぱりだ。
コイツら、ここぞと言わんばかりに頼んでやがる。
「……やっぱ、俺も行く」
「え! いーの?」
「ああ。
そもそも、お前が誘ってきたんじゃねぇか」
「それはそーなんだけど……」
だいたい、俺が行かないって言ったら
コイツどうするつもりだったんだ。
この量を、一人で持って帰るつもりだったのか?
バカにもほどがあるだろ……。
「……はぁ。とにかく行くぞ」
「うん!」
住人たちにしてやられた感じがしなくもないが、
確かにたまには外に出て、情報を仕入れておかねぇと。
とりあえず……鏡だけは要注意だ。
「んで? まずはどこから行くつもりだ?」
「うーん……いろんな作戦を考えてみたけど、
やっぱ最初っから重たいものはキツイよね」
「そうだな」
「とゆーわけで、重たくない生活雑貨から行きます」
生活雑貨か……
「確か、この裏路地を通ると近道じゃなかったか?」
「お! よく知ってるね、アッシュ。
そーなの、ここ何気に近道になるんだよね〜」
「なら、決まりだな。この道から行くか」
「おー!」
「生活雑貨もろもろを買ったら、
次はどーしようかなぁ……」
「何でもいいけど、出来るだけ無駄のないルートにしろよ」
「って言ってる辺り、
全然考える気ねーな、アッシュ!!」
「こういうのは、お前のほうが得意だろ」
レガーロに住み始めてからそう経ってはいないらしいが、
よく買い出しに出てるらしいし……
俺よりかは、よっぽど詳しいだろ。
「……あ」
「どうした?」
唐突に、が何か見つけたような声を上げる。
「いや、つい今そこを走り去った女の子が、
何か落としてったみたいでさ」
「あそこに落ちてるやつか?」
「うん、そー」
取りに戻ってこないところから考えて、
落とした本人は気づいていないと見える。
「これか」
「うん」
そこに落ちていた、丸くて薄い何かを拾い上げる。
掌に収まるサイズのそれが何なのか解らず、
ひとまず裏側を見てみようとすると、
「……!」
しまった……!
「ちょっと、それ鏡……!」
俺がしまった、と思ったのと、
が気づいたのはほぼ同時だった。
だが、もう遅い。
俺はしっかり、鏡を見てしまった。
「アッシュ……!」
の焦る声が聞こえる中、俺はその姿を虎に変えた。
まだ「人」としての意識はちゃんとあるが、
俺は念のためと少し距離を取る。
「…………」
けど、まずいな……
今は外に出ていて、リンゴは持ってねぇ。
けど、意識のあるうちに何とかしねぇと……
そんなことを考えている間も、
「人」の意識が少しずつ沈んでいく。
「…………」
くそっ……
このままじゃ……
「アッシュ!! こっち!!」
どんどん意識が沈んでいく中、が俺を呼んだ。
さっき焦っていたのとは違い、揺るぎない声だった。
「……!」
とっさに声のしたほうを見ると、
既にリンゴがこちらに向かってきていて……
俺は、そのリンゴを食った。
「アッシュ!!」
が慌てて駆け寄ってくる。
「大丈夫!?」
「……ああ」
深く暗い、海の底に沈んでいくようなあの感覚はもう無い。
そこにはただ、心配そうにするの顔があった。
「……んな顔すんな。もう平気だから」
「うん……
あ、と、とりあえず、誰か来ないうちに服直さないと」
「そうだな」
が後ろを向いたのを合図に、俺は服を着直した。
「あのさー、……やっぱもう帰らない?」
「はぁ? まだ何も買ってないだろ」
「いや、だって……
また鏡見ちゃったら、アッシュが嫌じゃん」
ああ、そういうことかよ。
「……別にいい。
お前だって、まだリンゴ持ってるだろうしな」
「まぁ、持ってるけど……でも、」
「いいから行くぞ」
「あっ、ちょっと!」
の言葉を最後まで聞かず、俺はさっさと歩き出した。
「ねぇ、ホントにこのまま買い出し行っていーの?」
「いいっつってんだろ、しつこいぞ」
「だってさ……」
「……お前、俺がなんで買い出しついてきたと思う?」
「え? えーっと……気分転換?」
ボケているわけでもなく、素で言っているらしい。
「お前がメモしてきたやつ、全部買ってったら
相当な荷物になるぞ」
「あー……言われてみれば、確かにそーかも!」
「そんなの、お前一人に持たせられるかよ」
そもそも、ほとんど俺の船で使うもんじゃねぇか。
「も、もしかして……荷物を持つために来てくれたり?」
「もしかしなくても、そうだな」
「……!」
驚いた顔をしたのが気配で解ったが、
俺はあえてのほうを見なかった。
「解ったんなら、とっとと行くぞ」
「あ、待って、アッシュ……!!」
確かに街に出ればそれだけ、
鏡を見ちまう可能性は高くなる。
けど……
たとえ俺の意識が海の底に堕ちようとも、
きっとお前が拾い上げてくれるんだろう。
だから俺は、こうして前を見ていられるんだ。
222.暗く深い、海の底にいるような
(これからも幾度となく、俺はその感覚を味わうだろう。
けど不安は無い。お前がそばに居てくれるから)