「はあ、っ…は……はあ…っ」


弾む息が荒さを増していく。
時々走りながら後ろを振り向いて窺うと、具体的な内容は聞き取れないものの、追いかけてきている彼等が何かを叫んでいるらしいことは分かった。









『鬼事しよう!』


そう平助君が言い出したのはつい先刻のこと。
暇だ暇だと散々嘆いた挙句のその言葉は、思いつきとしか思えないものだった。

けれど、目をキラキラと輝かせて、いいことを思いついたと言わんばかりの目を向けられて…
それに対して誰が「え、私も参加するの?」なんて薄情な聞き返しが出来るだろうか。
否、できない。できるはずない。




私が、皆さんが順繰りに行っている市中の見廻りについていく許可を貰ってから一月ほど経った頃の、ある昼下がり。

自分に与えられた仕事を終えた私は、まさに晴天と言える空を見て「こんなにいい天気なのに部屋に閉じこもっているなんて勿体ない」と、縁側でのんびり日向ぼっこをしていた。


そこに合流したのが平助君たち。
聞いた所によると、どうやら彼らも仕事が一段落して何もすることが無い状態になったらしい。
平助君が暇だ暇だと騒いでいたのは、これが原因らしかった。

きちんとやることをやって尚、少しの空き時間を休息とは捉えずに「暇」と言う彼の体はそんなに大きくはなくて、けれど体力が有り余っているらしいその様子との差に、やっぱり男の子なんだなあと今更認識した。

もちろん、酷いと言われそうだったので本人には黙っておいたけれど。





平助君が提案した鬼事…鬼ごっこという遊びは、複数人の中から一人鬼役を決めて、鬼役は他の人達を追いかけ触れることで鬼の役割が移動していくという単純且つ明快なものだ。

ここでその複数人に該当するのは、この遊びを提言した張本人である平助君に、そんな平助君と同じようにずっと「つまらない」と「お金がない」という主旨の言葉を叫んでいた永倉さん。
それから、呆れたようにそんな二人を見ている原田さんに、今しがた強制参加と相成った私の計四人だ。


鬼役はこれから決めるところなのだけれど、蛙・蛇・なめくじの三竦みによって勝敗を分かつ虫拳で決めようということになった。
これならば私にもできそうだ。小さな頃には父様とこれでよく遊んだから。


虫拳に何故そこまで、と言いたくなるほど気合いを入れている永倉さんと平助君がおかしくて笑っている私に、原田さんがそっと近づいてきた。

含み笑いを浮かべるその顔は、やっぱりいつ見ても整っていて、少し距離が近づいただけでも鼓動が跳ねる。


いや、新選組は皆さん(特に幹部の方々が)何故かとても綺麗な顔をしているのだけれど。
中でも一番甘い容姿をしているのが原田さんで……父様の診療所に来るおじさん達や小さな子ども達としか接したことのない私には、実はこの環境は刺激的すぎるのだ。

ああ…でも環境云々というよりは、その、正直、原田さんの笑顔だからこそ刺激が過ぎるのだけれど――



と、私が脳内で混乱に陥っていることも知らずに、原田さんは近づくどころかそっと屈んで耳打ちをしてきた。

微かに耳を擽る吐息が擽ったいなんて、恥ずかしくて絶対に言えなかった。囁かれた方の耳だけが熱をもったように、あつい。


「…千鶴、蛇出せよ」

「え…?あの、どうし」

「ちーづーるーっ、やるぞー!」

「あ、は…はーいっ」


ぽそりと呟かれた言葉に問い返そうとしたけれど、思う存分気合いを入れた二人が今度は急かすものだから調子がずれてしまって結局聞けなかった。

よく分からないけれど、四人で円になった時隣に居た原田さんをちらりと窺うと、相変わらず笑みを浮かべているから…言うとおりにしてみようと思った。

平助君の元気な掛け声と共に、それぞれの体の前に出した手が各々の決めた形を取る。
結果――


「あ」

「あー」

「あ……」

「えええええ!?」


私を含む三人が人差し指だけを立てた状態…つまり“蛇”で、平助君だけが親指…つまりは“蛙”だった。

…四人で虫拳なんてやったことがないから、これが普通なのかどうかは分からないけれど……平助君の叫び声からも永倉さんの驚いた表情からも、それがとても特異な結果だということだけは分かる。

ただ一人、原田さんだけは楽しそうに笑っている。


「お、じゃあこれで決まりな」

「おいおい平助、おまえ言いだしっぺで負けるなんてお約束な奴だなー」

「本当だよなあ」

「うるっせえよ新八っつぁん!…あ…!まさか、左之さん、その顔…仕組んだな!?」

「仕組んだって何だよ。別に俺は何もしちゃいねえよ」

「嘘だ!じゃあ何でそんなにやにやしてんだよっ」


とても大きな声で騒ぐ平助君は不機嫌そうに顔を顰めているのに、どうしても揉めているように見えないのは、たぶん原田さんが清々しいほどの笑みを浮かべているからだろう。

それにしたって、私は原田さんに言われたから蛇を出したけれど…拳に気合いを込めるのに夢中になっていた永倉さんに原田さんが何か言った気配はなかった。

それに何よりも、平助君が蛙を出すとは限らないのに私に蛇を出させるのは、やっぱり仕組んだということにはならないのではないだろうか。


不思議な感覚と目の前の結果に首を傾げていると、それに気付いた原田さんが私に視線を投げかけてきたのを気配で知った。
頭一つ半程度高い場所にある原田さんの顔が優しい表情を浮かべたのを見て、私の鼓動はまた跳ねる。

「直視するのは無理だ」と騒ぐ心臓が伝えるけれど、何か言いたそうなのに目を逸らすのはあまりにも不自然で、私は見上げることで同時に目に映る晴れた空が眩しいのだという言い訳を何度も心の中で念じながら目を細めた。

少しだけぼんやりと不明瞭になった視界に、情けないくらい安堵した


「まあ…仕組んだって言えば仕組んだけどな。」

「ほら!やっぱり!!ずっりーよ左之さん!」

「まあ聞けって。千鶴に鬼やらせるわけにゃいかねえだろ」

「え?私、ですか…?」

「ここで暮らしてるとは言え、千鶴は女なんだからな。俺たちと遊びとは言え走ったって中々捕まえられねえのは目に見えてるしな」

「確かになー。これでも俺ら新選組組長張ってるし、体力だけは有り余ってるし」

「だろ?しかも千鶴だっていつも暇なわけじゃねえ。今日だって掃除洗濯炊事…俺の組の奴らも、最近雑事が減ったって喜んで稽古してたぜ」

「それに格段に飯がうまくなったしな!あ、でも出来れば味噌汁はもう少し濃い目でも…」

「新八、ちょっと黙ってろ。…まあ、つまり。たかが遊びでも、仕事で疲れてるだろう女に一番面倒な役割押し付けるなんざ男が廃るだろって話だ。そうしたら言いだしっぺのお前がやるのが筋だろ、平助。」

「う…」


原田さんは、ここが屯所内であることを考慮してか「女」という言葉の時だけ声を潜めてくれた。
にやりと笑うその顔を向けられた平助君は困ったように唸る。

一瞬ちらりと私を申し訳なさそうな目で見た平助君を、やっぱり私は男の子という風には見れなくて…何だか、主人に怒られた犬みたいだなと思った。
ごめんなさい、平助君。と心の中で謝ることも忘れなかった。


「ま、それに鬼役にするのには平助が一番都合良かったし」

「へ?なんで…」

「お前、気付いてないかもしれないけど…虫拳する時いつも最初に蛙出すんだよ。ま、親指が一番立てやすいからだろうけどな」

「え!?ほ、本当に!?」

「よーく思い出してみろ、お前ここ最近何か決めるときに虫拳したの、俺には全部負けてるぞ」

「!!」

「そ、そうだったのか…」

「言っとくけど、平助と同じくらい驚いてる新八はそんなの知らないだろうし、ただの偶然だからな。それに…」


ふとこちらを見た原田さんは、私のことをじっと見つめて、直後に溶けそうなくらい優しい笑顔を浮かべた。
鼓動が跳ねるどころか、カッと胸元が熱くなったのを感じる。


ああ、もう、どうしよう


視線を合わせるなんてもう出来なくて、細めた視界でも空より眩しいそれに、視線を下げざるを得なかった。


「千鶴が何出すか決めといて俺もおなじものを出せば…少なくとも千鶴一人が負けて鬼になるってことはなくなるしな」


言う事聞いてくれて助かった、と笑いながら私の頭をぽんぽんと優しく撫でる手の大きさと温かさに、感じたことのない胸騒ぎがした。

風邪でも引いたのだろうか、もしかしたら思った以上に仕事で疲れているのかも。

でも、そうだとしても、こんなに胸が騒いだことはない。こんなに落ち着かなくてそわそわしてしまうことなんて無かった。


だったら、これは何なのだろう


「ああー、なるほどね。こんな遊び一つでも気を遣うっつうのが女に受けるわけか……くーっ、左之のやつ上手いことやるなー!平助もうかうかしてらんねえな」

「だああ新八っつぁん本当うるさい…!…く、くそ…。もう止め!やめやめっ!鬼事やめる!」

「おいおい平助、そりゃねえだろ。お前が言い出したってのに…」

「いや左之、俺も中止に賛成だぜ。…大体、はなっから屯所内で鬼事なんて違和感あったんだよ俺は。嫌でも屯所の中には紛うことなき本物の鬼がいるってのにさー」

「……いや、新ぱ」

「鬼事の鬼なんて、うちの鬼の副長にかかったら秒殺だろ!つーか寧ろ、鬼事だとか鬼ごっこなんて名前止めちまって、寧ろ副長事とか副長ごっこにしちまえばいいんじゃ――」

「へえ…そりゃあ楽しそうな遊びだな」

「だろだろ?じゃあ次の機会にでも仕切りなおしってことで………え?」


騒がしい声が飛び交っていたはずの場がしんと静まり返った気配に、自分の思考に沈み込んでいた私の意識もハッと覚める。

ふと顔を上げると、ギギギと音が鳴りそうな程にぎこちなく振り向いた永倉さんの後ろに、にっこりと笑った土方さんが見える。

……永倉さんがどんな顔色をしているのか、見なくても分かった。



と、私も一緒に青褪めかけた瞬間、ぐいっと手を引かれて体が傾いだ。

そうして引かれるままに足を踏み出した私の前には、私の手をしっかりと包んだあの大きな手と、揺れる綺麗な色の癖っ毛。

後ろでは永倉さんの大きな叫び声と平助君の泣きそうな「オレ何にも言ってねえのにー!」との主張が響き渡っているのだけれど、どうやら騒がしい足音からして二人も逃げたらしい。

けれど、一向にその足音や叫び声が遠くならないのは、逃げる方向がまるで私達を追っているかのように同じだから


「っち…!なんでこっち逃げてきてんだ、あいつらは…。千鶴、とばっちりなんてごめんだろ。このまま走って逃げるぞ」

「は、はい…!」


悪態をついてから、短く言って振り返った原田さんの表情は、言葉とは裏腹に晴れ晴れとしていて
私の返事に、まるでいい子だと言うかのように握った手にきゅっと力を込めた。


後ろで走っている人達が人達なので、普通には考えられないほど速度はぐんぐんと上がっている。
その追い上げはとてつもなくて、耳に届く怒号や叫び声がどんどん近くなってきている。

それに合わせるように、原田さんもぐんと速度を増す。
ということはもちろん手を引かれている私もそれだけ速度を上げなければついていけないわけで…


「は、はあ…っ、はあ……あ、あの、でも、原田さ…ちょっと、早…っ…!!」


足が縺れて、転びかける。
慌ててぐいっと引かれた手に救われて、どうにか地面と御対面なんて事態は避けられたけれど、背後から聞こえてくる声が近いのには変わりない。

寧ろ、私が転びかけたことで僅かながら足が止まったため、近さは更に増していた。


べつに悪いことをしたわけでもないのに追いつかれるのが怖いのは、たぶん先刻振り返ったときに見えた土方さんの顔がものすごく怒っていたからだ。
永倉さんの背後で浮かべていた笑顔との差がすごすぎて、思い出すだけで体が震え上がる。


「…限界だな…」


私の息の荒さと、少しずつ遅くなっている足の運びに気付いた原田さんがぽつりと呟いた。

たかが追いかけられたくらいで大袈裟かもしれないけれど、「私のことは置いていってください」と言おうと口を開きかけた瞬間、更に掴まれた手が引かれた。
同時に、視界に移っていた原田さんの足が一瞬止まった。


え、と思った瞬間にはもう、私の体は宙に浮いていた


「はあ…、っは……え、…ええ!?」

「暴れるなよー、捕まると連帯責任で面倒だから。ちょっと我慢してくれ!」

「で、でも原田さん、私重いので…っ」

「重くないって。それより、黙っておかないと舌噛むぞー」


何度も何度も胸騒ぎを起こされた綺麗な顔が、今までにないくらい間近にあって

触れたことなんてもちろんない、男の人特有のがっしりとした腕に包まれて、開いている胸元が布越しに私の肩や腕にその温度を伝えてきて


どきんどきんと、跳ねるどころか早鐘を打つこの胸の音がどうか聞こえないようにと、祈るように私は目を閉じた。


口だけではなく目まで閉じた私をどう思ったのか、頭上からはくすりと笑う声が聞こえた。













顔があついのも
胸がはじけてしまいそうなのも
実は挫いた足が、少しだけ痛むのも


じくじくと私を侵食していく熱は
全部、ぜんぶ、あなたのせいで





(ああ!見ろよ新八っつぁん!千鶴が…千鶴が左之さんに…!)
(馬鹿、平助!それどころじゃねえっての…!)
(待てこら阿呆どもおおおお!!)